結論を急がせる相手には用心する必要がある
即断即決は常に正しいとは限らない
もう舞い上がってしまった、とでもいう他がない。
「是非、当社に入社してください。いつから出社可能ですか?」
多様な事業展開を押してくる経理部長の口車につい乗ってしまった。その場で経理部長は、
「それでは、いまから会長(オーナー)のアポを確認してきます。すぐに、会長(オーナー)に会ってください。」
私は、どうして社長でなくて、その上の会長なのか多少は疑問に思ったが、その場では深く考えることはなかった。
経理部長は退室後、すぐさま部屋に戻り、会長のアポが取れたことを伝えてきた。私は、促されるがまま、一つ上の階の会長室に通されることになる。
歴戦の強者である会長に射抜かれる
そこは、それまでTVの世界で見たことがある会長室のイメージそのままだった。
豪勢な装飾が施された文書机に、絵や何かの置物が所狭しとこれでもかというくらい並べられていた。
そこに初めて訪れる者たちをすぐさま飲み込み、威勢を刈るための如く。
会長は、にこやかにそこに佇んでいた。
「あなたが、今度、経理部に入社を希望する方ですか。」
その後、二言三言、言葉を交わしたが、ついぞ、入社のための条件確認的な話は出なかった。ただの面通しの体だった。
経理部長は、即決しない私に対して、この会長と会長室を見せたかったのだろう。
そして、私は、見事、経理部長の術策に嵌り、ほとんどこの会社への入社を心に決めてしまった。
人生の岐路でのタラレバ
私は、面接部屋に戻った後、会長室へ上がる前の経理部長との会話を反芻してみた。反芻しきる暇を与えることなく、経理部長は、
「会長があそこまで認める人材はなかなかいません。どうやら、あなたはお眼鏡に適ったようです。すぐに入社を決断してください。」
と、さらに決断を迫ってくる。私は、
「実は、今週の木曜日にもう1社、面接があるんです。できれば、その会社の面接を受けた後までお返事を待っていただけないでしょうか。」
と経理部長に相談をもちかけた。
(自分の行動に「お」をつけて、「お返事」だなんて、間違った敬語を使ってしまったことは、今でも昨日のように覚えている)
「いいえ、当社は待てません。次の候補者も待っているのです。ここで決めないと困ります。」
私は、大学を卒業してから後、孤独な資格勉強(実際には受験勉強を熱心にしたわけではないが)を強いられる環境に身を置いていたため、第三者からこれほどまでに必要とされることに慣れていなかった。
目の前の50代前半と見受けられる経理部長がこれほどまでに熱心に口説いてくれている。
大卒後、モラトリアムを過ごしてしまい、レールから外れた自分をこれほどまで大切に思ってくれる人は貴重だ。そう信じ込んでしまった。
それが、次の挫折の始まりとは、その時は知る由もなかった。
選択肢を自ら狭めるのはどんな状況でも悪手
自らを悪い方悪い方に追い込む悪い癖は、既にこの時に始まっていた。
実は、今週の木曜日に面接予定の企業は、二部上場の素材メーカーだった。しかも、親会社は一部上場の世界的にも有名な大企業だった。
現在、この子会社は上場廃止しているが、親会社の方は、現在でも立派なワールドクラスのリーディングカンパニーだ。
今なら絶対に判断に迷うことはないだろう。
いずれかの選択肢を採るべきかを決める場合、人生においては、常に情報不足であるのが世の常なのだ。
与えられた情報の中で最良の判断をせざるを得ないのが人間というものだ。
ハーバート・サイモンが『Administrative Behavior』にて提唱した人間の認識能力についての概念に、「限定合理性」というのがある。
意味をかいつまんで説明すると、人間(経済的主体)は、合理的であろうと意図するけれども、認識能力の限界によって、限られた合理性しか持ち得ない、ということ。
人間はよくよく「限定合理性」しか持ち合わせぬ存在なのだ。
だから、自分で選択肢の幅を狭めてはならない。常に選択肢をより多く持った方が幸せな人生を送ることができるのだ。
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